いつまで「正直者がバカを見なければいけない」のか? 社会の一つの縮図=学校が修羅場と化す『ありふれた教室』

 第73回ベルリン国際映画祭でダブル受賞を果たし、ほかドイツ映画賞の主要5部門受賞、アカデミー賞国際長編映画賞ノミネートなどでも話題を集める一作、『ありふれた教室』が5月17日から全国公開される。

 舞台となるのは、とあるヨーロッパの中学校。中心人物は、新たに赴任してきたばかりの先生であるカーラだ。新しい学校にとけこもうと前向きな毎日を送っているのだが、ある日から、学校内で盗難事件が起こるようになり、カーラの教え子が疑われてしまう。校長を始め、ほかの先生たち(カーラがやってくる以前からその学校にいる者たちだ)は、まるでその生徒が犯人であると断定にかかっているかのようで、それもカーラには面白くない。犯人はまた現れるのではないか、と、カーラはひそかにカメラを設置したのだが、なんと、そこにぼんやりとうつっていたものは……。

 もちろんこれが「真犯人探し」の映画であれば、エンディングに向かうわけだが、この映画は私たち観る者を違う道へと案内し、「倫理」を突き付ける。この程度の「ぼんやり」では犯人を断定できないのではないか。学校内を無断で隠し録りする行為だって、法に触れるんじゃないのか? などなど。なにしろ学校だし、たくさんの人数が一堂に会するところだし、生徒の中には意識の高い(妙に大人びた)連中もいるし、ゴシップ好きもいるから、あれよあれよという間にカーラが「時の人」(好奇心を集めるという意味で)になってゆく。

 もうカーラ以外のひとたちの意識は「誰が窃盗したか」よりも、「カーラと、疑いのある人物」にバトルを期待し、それをいかに高みの見物状態で楽しもうかというところに移っているようにも感じられる。

 まじめに己を貫けば貫くほど、カーラはピエロへと近づく。ここで「君ならばどちらに立つか?」と尋ねられているような気持にもなったが、私もカーラのようであれたらとは思う。少なくとも烏合の衆まるだしの人物たちにはなりたくない。ストーリーにはルッキズムや移民問題の話も出てくる。特定のバックグラウンドを持つひとたちが、何かが起きた時、まっさきに疑われる状態は、いったいどこまで続くのか。監督はドイツのイルケル・チャタク、カーラ役はレオニー・ベネシュ。

映画『ありふれた教室』

5月17日(金)新宿武蔵野館、シネスイッチ銀座、シネ・リーブル池袋ほか全国公開

監督・脚本:イルケル・チャタク
出演:レオニー・ベネシュ、レオナルト・シュテットニッシュ、エーファ・レーバウ、ミヒャエル・クラマー、ラファエル・シュタホヴィアク
2022年/ドイツ/ドイツ語/99分/スタンダード/5.1ch/原題:Das Lehrerzimmer/英題:The Teachers’ Lounge/日本語字幕:吉川美奈子/提供:キングレコード、ニューセレクト/配給:アルバトロス・フィルム/G
(C)if… Productions/ZDF/arte MMXXII
(C)Judith Kaufmann, Alamode Film
(C)BorisLaewen
(C)ifProductions_JudithKaufmann
(C)Hanna-Lenz
(C)Johannes Duncker

公式サイト
https://arifureta-kyositsu.com/